小酒井不木
底本:「小酒井不木探偵小説選 〔論創ミステリ叢書8〕」論創社
2004(平成16)年7月25日初版第1刷発行
初出:「子供の科学 二巻三〜五号」
1925(大正14)年3〜5月号
入力:川山隆
校正:伊藤時也
小酒井不木
私一人、俊夫君の事務室兼実験室の中に寂しく待っていると、九時少し過ぎに木村さんが訪ねてきました。木村さんは大切な白金の紛失のために気を弱らせたと見えて、いつもとは違ってすこぶる元気のない顔をしていました。
「大野さん、白金が明日の朝までに帰ってこぬと、私はどうしたらよいでしょうか」
と木村さんは私に向かって、いかにも心配そうな顔をして申しました。
「まあご心配なさいますな。俊夫君はきっと取りかえしてくれるでしょう」
「けれど俊夫さんは私や竹内ばかりにかまっていて、あんなエックス光線のようなむだ骨折りをさせたのですから、あの間に犯人はもう遠い所へ高飛びしてしまったにちがいないです」
私は、どう言って木村さんを慰めてよいかに迷ってしまって、黙ったままじっと考えこみました。
するとそこへ俊夫君が額に汗をにじませて帰ってきました。
「木村のおじさん、よく来てくれました。先刻は失礼しました。竹内さんはどうしましたか」
「竹内はいっしょに帰ってきてから間もなく、疲れたから、下宿でしばらく眠ってくると言って帰りました」
「竹内さんは怒っていたでしょう?」
「だって俊夫さんはあんな大袈裟なことをするのですもの。私は生まれて初めてエックス光線にかけられましたよ」
「あんなものを度々かけてもらうのはよくありません」
と俊夫君は皮肉を言いました。
「で、俊夫さんはもう犯人の見当はついたのですか」
「つきましたよ」
「え?」
と私たち二人は顔を見合わせて同時に叫びました。
「犯人は誰です?」
と木村さんはいきまきました。
「まあそう、気を揉まんでもよろしい。それをお話しするまえに、おじさんに振る舞いたいお茶がある」
「お茶ですって? お茶どころではないです。早く犯人の名を聞かせてください」
俊夫君はそれに返事もせずに、薬品棚から一つの罎(びん)を取り、それを傾けて、中の液をビーカーの中へ注ぎました。それから、細い白金線を小さく切って、木村さんの眼の前に持ってきました。
「木村のおじさん、このお茶はちょっと変わったもので、不思議な芸当をやります。いいですか、この中へこれを入れますよ」
こう言って俊夫君が白金線の小片を液体の中へ入れると、白金はかすかな音をたてて、見る間にとけてしまいました。
「王水(おうすい)〔(塩酸と硝酸との混合物)〕ですか?」
と木村さんは驚いて申しました。
「そうです。けれど竹内さんの飲むお茶はこれです」
「え? 何? ではあの竹内の土瓶の中は王水でしたか? あの中へ白金がとかされていたんですか? そりゃ大変!」
こう叫んだかと思うと、木村さんは後をも見ずにあたふた駆けだしていきました。
「兄さん僕らも木村さんの家(うち)へ行こう」
私たちが木村さんの家の前までゆくと、木村さんは中から駆けだしてきました。
「俊夫さん、竹内は土瓶を持って帰ったそうです。早く何とかしてください!」
「おじさん、あわてなくてもよい、兄さん、自動車を呼んできてください」
と俊夫君は落ち着いて申しました。